しのもものの日記🎈

個人的な日記をひたすら書くだけのブログです。

時間

もう夏が近づく。

 

時間が経つのは早いもので、

歳をとればとるほど、時間においてけぼりにされる。

過ぎ去る季節や人、出来事。

それにしがみついても人は無力で、

自然と時間に流されて生きる。

 

時が過ぎても、自分だけが何も変わらないような気がしてならないけれど、

自分も、自分が思う以上に日々、アップデートされていて、

今日の気持ちは、明日には変わっているかもしれない。

昨日感動したものは、今日は色褪せて見えるかもしれない。

 

あの時、愛した人もアップデートされており、お互いにあの時の気持ちを共有するのが難しくなっているかもしれない。

優しくて穏やかだったはずの時間。

今日愛してる人は、明日も愛せるだろうか。

人は瞬間を生きる。

人は孤独で、時は残酷だ。

でも時々、優しく熟成してくれる。

 

今日愛してる人は、明日も愛したい。

 

 

 

 

 

 

自由

自由であることは難しい。

自由は不自由だ。

 

人はある程度の制約がある中で生きないとあまり幸せじゃないと思う。

たくさんの条件がある中に存在することで初めて自由を手にするわけで、

条件がないただまっさらな空白だけを与えられても迷う。それが不自由ということだと思う。

 

自分で恒常的に作り続けること。

自分で恒常的に選択すること。

アイディアを生み出し続けること。

苦行じゃないかな。

 

逆に、怠惰になること。

これも経験した者にしかわからないだろうけれどもある程度の精神的苦痛を伴う。

 

人は、太陽には逆らえない。

春夏秋冬、環境にも逆らえない。

単純にこれだけの条件下で考えても、人はどれだけ自由を満喫するのだろう。

 

条件あってこその自由の価値ではないかな。

ネガティヴがなければポジティヴは存在しない、みたいな話になるけれど不自由さがなかったら自由は存在しない。

 

でも、不自由さにだけフォーカスして逃げようとしてしまうのが人の常でありもしない理想郷を追いかけ続ける。

 

アイディアを必要とする時は、何らかの縛りを設けてみるといい。

 

思いつきで適当に言っただけだから知らないわ。

 

自由になりたい。

 

 

 

 

 

 

 

虚無

夜中や明け方に激しく泣くことがある。

理由は何もなく、ただ虚無感に襲われてその心と戦っている。

 

自分の人生がよくわからない。

このまま生きることに何の意味があるんだろう。

生きることは、ただ、使命として生きること(生きなければならないこと)だけであり、そこに意味なんかないのはわかってる。

 

生きることは素晴らしい、とか人は色々言うけれども、そんなわざとらしい歯の浮くような理由なんか本当はいらない。

 

生まれてきたから生きるだけ。

 

意味を探してしまう。

メンタルをやられてる時。何でだろう。

そこにある虚無感の居心地の悪さが、わたしの頭の中で反射的に自分の存在価値を見出そうとさせるのだと思う。

 

自分がこれまで生きてきて、そこに何らかの価値が見えないと救われないと思ってる。

 

でもね、そこにある虚無感が正しいのだ。生きることの在り方なんて、虚無。

人はその事実に怯えてるんじゃないだろうか。怯えるからこそ、何か爪痕を残してから死にたいと思うんじゃないだろうか。

爪痕を残せない者は虚無に怯え、死に急ぐけれど、死は死で、これもまた虚無であることをわかってないといけないと思う。

生きることと同様、

死も自分の意志で選択できないものである。

 

死がきたら死ぬだけ。

 

虚無感に怯えなくていい。

何か自分に価値や意味を見出さなくていい。生きてればいい。死がくるまでは。

単純なこと。

 

物事ひとつひとつに、勝手に彩りを与えると色んなものがいくらでも膨れ上がってくるけれど、死んだら全部なくなる。

自分の心にある欲を満たそうと思うと泡のように増えてくるけれど、こんなに不確かなものはない。弾けたらそれで終わり。

 

欲を満たすことは大切ではない。

虚無感を怖がらずに受け入れることが大切なんじゃないかな。

でもその感覚を保つことが難しい。

虚無感が剥き出しの状態で目の前に立ちはだかる時、頭に死がよぎってしまう。でもそれは間違いだということも頭ではわかっている。

混乱して怖くなって、夜中、明け方、激しく泣く。

 

無欲、無気力、無関心な時、現実世界と自分との間が引き裂かれる感覚がある。

現実世界の温もりが自分の芯まで伝わってこない。何もかもがナマモノに見えずに人工的に感じてしまう。

お気に入りの服、靴、バッグ。

手に取ってもなんだか変な感じがする。

お気に入りなんだけど、ワクワクしない。かけ離れた世界の物のようにも見えるし、他人の事のよう。

好物のオレンジ。片手に持った感触、重さ、匂い、味。全部ニセモノみたい。

 

五感がまた働かなくなってきたかもしれない。

 

図書館で読みたくて借りた本を、1ページも開かずに翌日返す。

 

また一日中、ぼーっと過ごして一日が終わり、虚無感と戦う。

 

ヨガ、大丈夫かな。

できなければ少し休めばいいのだけれど。

 

コミュ障

このブログはいつも同じ事を書いてるような気がするのだけれど、自分の日記だから書きたいだけ書くつもりでいる。

自分の中で何か見出すものがあれば、それはとても有意義なブログである事になるから。

 

わたしは、他人から踏み込まれたくない心の領域が恐らく広い。

ただの世間話程度であればいくらでも話せるから、本当の意味ではコミュニケーション障害ではないのだろうけれど、

友達が作れない。

もしかして、自分で作らないようにしているかもしれない。

簡単な世間話のやりとりだけで、友達になれるなら少しは友達ができるのかもしれないけれども、それくらい浅い付き合いは続かない。

かといって、仲良くしようと距離を近づけてくる人に対応できない。

 

悩み事があったら聞くよ

 

と言ってくれる人は過去にも今もたくさんいたけれど、悩み事を打ち明けられるほど、親しい人だと感じないから、打ち明けることはできない。

わたしが手に負えない自分の中のドロドロした本心。

その人に打ち明けたからと言って、さらに絆が深まるとは思えない。

 

友達関係を築く事。

他人と何かを共有するって結構精神的負担が大きくないだろうか。

もちろん、同じ趣味があるとか、自分と同じ属性、カテゴライズできる人同士で共感できる深い話をし合うのは、楽しいのはわかってるけれども、

この人との絆が深まった。という感慨深さを抱く瞬間て、もっと人対人の人生観や過去にそれぞれが傷ついて得た教訓が似通っていたとか、心の芯まで響くものを感じたりした時に、出てくるものではないかな。

信頼関係もそこで築ける。

 

楽しい話だけをして、それで友達を名乗るのもありなのだろうけれど、

わたしは日頃常々思うけれど、やっぱり生きる上で、ポジティヴな感情だけでは本物は作れない。

ネガティヴな要素がそれを本物にしてくれる。

とはいえ、ネガティヴさはあくまでも自分の中にあるものであって、他人を蔑むものはこれに当てはまらない。

ポジティブがあって、ネガティヴの要素もあって絆ってできる。

時には考え方の相違で喧嘩することもある。

基本、人生に立ち向かう志を互いに尊重して応援することができる。

それが盟友とか戦友とか。

 

わたしにとって友達ってこんなイメージ。

ただ今のわたしは、このプロセスを踏んでまで友達を作ろうとは思わない。

そもそも、そんな友達って意図的に作るのではなく、もっと偶発的な小さな事から始まって育っていくものだと思うから、その偶発的な事も今はなくて、それを起こす可能性がある人も周りにいない。

盟友とか戦友とか言える友達。今はいらないかな。自分の事でいっぱい。

あと、わたしの生きてきたこと、今抱えてる苦しみ、共感できる人はいないでしょう。孤独でいる事に慣れすぎた。

 

こんな事をしていたから、自然と人嫌いになったしまったかもしれない。

時々、壊したくなる衝動に駆られる。

SNSを全て破壊した瞬間の、何かに縛り付けられていたような感覚から一気に解放されて心が軽くなった快感には自分でも驚いた。

連絡が取れなくなった人達を思うと悲しさはある。

切ないけれど、わたしはいつも破壊衝動を繰り返してしまう。

自分をリセットできる気がするから。

その理由に、浅くともわたしとの繋がりを大切にしてくれてた人達は関係なく、全て自分自身の問題。

話を変えて、次のブログへ「リセットについて」

音楽より本を

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外出先で、カフェで、ヨーガ・スートラを読む。

 

わたしはやっぱり世界を拒絶してるのだろうか。

自分を取り巻く存在の多くを受け入れ難い所がある。

何に対して不快なイメージを抱いてるのだろう。

 

自分が傷つかないように必死で守っている。

自分が疲れてしまうから。

 

世界はそのまんまで、その世界をどう見るかは自分次第。

だから世界はすべて自分自身の投影物とヨーガ・スートラは言うのか。

心が欲を生み出す。

外界で見えているものは、本当のところ、すべて自分の中で作り出されている。

 

他人からよく思われようとしてるかな。

いや、そんなこと思うのはとっくに捨てていて、自分の好きなようにしている。

どんな風に思われてても構わなくて、他人の事など気にしてない。

 

でも、本当に心から気にしてないのであれば、自分の置かれている環境や他人がどうであれ、そこに煩わしさを感じる事はない。

自分の幸せを自分の中から見いだせる。

 

という事は、まだ他人をどこかで意識している。

他人を気にして自分を取り繕っている。

幸せを自分の中ではなく、他人にもとめている。

わたしという人間は、とても守備範囲が狭く、社会にも人の輪というものにも、適応しない。

 

人格に問題があるから仕方がない所はあるけれども、やっぱり、強さが欲しい。

ねじ伏せる強さではなく、

そのままでいられる強さ。

何かに怯えて真の自分を防備するわけではなく、脱力してふわふわと漂いながら、どこに流されても素の自分でいられる強さ。

 

これを突き詰めたら、答えは「無」の一言でしかない事に気づいてしまった。

 

瞑想が目指しているものは、「無」とは違う、という話も聞くけれどね。

 

誰にも依存しないで生きること

わたしはメンタルが少し弱いところがあって、生活力や判断力がない。

一人で生きていくにはあまりにも危うい。

過去に、一人で生きててまともな生活ができず、死にかけたことがある。

 モヤモヤとしていて、今まで口に出すことができなかったけれども、これはわたしにとって致命的な欠点だ。

 

こんなの、生きてていいんだろうか。

女一人で生きてく人生、とかそれを目指しているわけじゃない。

でも、恋愛して同棲するにしろ、結婚するにしろ、前提として、一人で生きてくスキルが備わってるか、というのは結構大事な気がする。

 

でもそんなことを言ったら、恋愛もダメ、結婚もダメ、一人で生きられない、

ならもう死ぬしかないね、ってことになると、それは一番困るだろう。

生まれてきたからには生きなきゃならないから。

 

誰にも依存しないでいられる強さ

って、喉から手が出るほど欲しい。

 

でも、その強さとは、恐らくわたしがここに書いてるような融通の利かない堅苦しい考え方や物事を決めつける癖とは真逆の

もっと、しなやかで柔らかく、そのままを受け止められる寛容さ、臨機応変さが備わってこそ身につけられるものなのだろう。

 

普段の心がけで身につくものだろうか。

(´⌒︎`。)

 

がんばってみようか。

 

SNSやーめたっ!( ੭ ˙࿁˙ )੭ ᐝ

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 どうせ誰も困らない。

わたしがいなくても。

いなくなっても気づかれないか。

 

たかが、SNS

Twitter 以外、全部やめた。

LINEもやめた。

削除したら不思議なくらい、気持ちが自由になった。

削除するまではグダグダと色んなことを考えて、やめない理由を探していた。やめるのが怖かったんだな。

だけど、削除してしまったら、いかに心が他人との関係に囚われていたかがよくわかった。

 

わたしはそんなに人付き合いが上手じゃない。だから友達も多くなかったわけだけど、そのコンプレックスに振り回されてそういうツールにしがみついてた事がいかにバカバカしかったのか、今では客観的に見られる。

びっくりするほど後悔してない。

 

今日やめた。

やめたらSNSは呪いだったことに気付かされた。

呪いが解けたと思った。

これから日が経つにつれて、もっと自由な自分らしさを取り戻していくのだろうと思う。

 

普通に使ってただけなんだけれど、わたしはああいうツールは合わなかったんだろうな。

 

Twitterも放置してる。

目的を果たしたら速攻削除する予定。早くやめたい。

 

人から

Facebook は?

インスタは?

LINE教えて

って聞かれて

 

やってないの

 

って答えるの、なんとなくカッコよくないかな。そう思うのわたしだけか。

変人扱いされるだろうけど、合わなかったんだから仕方がない。

もうそんなこともどうでもいいか。

 

周りのみんながやってるからってそれに囚われない。

わたしはわたしの道を行くだけだね。